教養フォーラム

 

手のぬくもり!そして教育!

  文学部講師  小 宮 路  敏

【プロフィール】
 
著書に「楽しいリズム遊び」「歩いてゆこう・作曲集」(以上玉川大学出版部),「真の教育者をめざして」(瀝々社)などがある。作曲作品として「歩いてゆこう」「もしもコックさんだったなら」「毛虫が三びき」など。現在,小学校音楽教科書の編集者,月一回の教育研究会「牧心塾」を主宰。)

握手による手のぬくもり

 玉川の音楽講義に接したことのある人だったなら,きっと誰もが「ハローハロー」という歌の洗礼を受け,この歌に馴染んでいるのではないでしょうか。私が小学部で教鞭をとっていた時,音楽授業の始まりには,ただこの歌を歌って始めるにはもったいなく,「やあ,こんにちわ,ごきげんいかが」の個所をみんなで握手をしながら歌うということを思いつき,それ以来どんな授業の始まりでも,このパターンをずーっと続けるようになりました。歌いながらの子ども同士の握手,子どもと教師の握手,参観のお客さまとの握手など,お互いの手のぬくもりが必ずその場をあったかい雰囲気にし,みんなの心がひとつになるという喜びを感じました。ほんとうに神さまはいいみ恵みを与えて下さった,と思っています。しかし反面こわいもので,もしその時期に私と子どもたちとの関係がしっくりいかないものであったり,信頼度が薄れていたなら,子どもたちは私と握手するのを避けようとします。まことに握手は,その時期に於ける教師と子どもの「信頼度のバロメーター」だとも言えそうです。

 ちょうどこの「手のぬくもり」についての興味ある記事が「朝日新聞・日曜版」に載っていましたので,引用させてもらいます。

『握手を仲良しのしるしに』
 横浜市の上白根病院形成外科研究所長・荻野洋一さん(68)は,握手を信頼のバロメーターと考えています。先天的に耳のない子どもたちの耳を,四十年作り続けている荻野さんの治療は,病院や白衣におびえる幼い患者たちの恐怖や不安を除き,医師との間に心を許し合う関係を育てることから始まります。
 しゃがんで目の高さを子どもに合わせ,「いくつ?」「だれときたの?」と問いかけながら緊張をほぐし,「ちょっと手を見せて」と誘導します。子どもは警戒しているので決して手を握らせてくれません。仲良くなるための工夫と努力が,更に必要です。一方,激痛に叫び声をあげるほどの病人が,「看護婦さんが手を握っていてくれると,痛みが和らぐように思う」と言うのもよく聞きます。形式化しているあいさつの握手も,元はこうした人間心理の深いところから生まれたのかも知れません。握手を交わすと,出会いの喜びも別れの切なさも,言葉の何倍増しにも感じます。手は不思議だと思います。

この記事を読んでいて,こんな詩があったのを思い出しました。

   『握手』  河野 進
わたしの従兄弟(いとこ)は 三十歳以前に医学博士になった
彼は信徒ではないが ひとつの確信を持っている
病人には三分でも五分でも しばしば握手せよ
健康者の活力が 病人の衰えた心身に注入して
壮快に感じさせるのに 気づいているか
なるほど思い当たるふしがある
言葉だけの見舞いより 握手を喜ぶ
祈りと協力すれば いっそう効き目があるのは当然だ

親の手のぬくもり

 子どもが成長していく過程で,それも十四,五歳の最も反抗期の頃,どの親もどう対処していったらいいのか戸惑ってしまう時期に遭遇します。今まであんなに素直だった子が口もきいてくれなくなり,「さわるな!近寄るな!話しかけるな!」と反発さえするようになった時,親はもうびっくりしてしまって,どう接したらいいのか分からないというジレンマに陥ってしまうのです。ひどい時は,感情的なもつれから親子断絶という悲惨さえ招き兼ねません。しかし聖書はこう教えているのです。『わたしは服従せずに反抗する民に,終日わたしの手をさし伸べていた』(ローマ10・21)。神は反抗して家出してしまった子どものために,毎日毎日,夜も戸を閉めないで待っている父親のような方なのです。同じように失敗ばかりして何回も神に背いた私たちをさえ愛して下さることをやめないで,握手しようと手を差し伸べておられるのです。そういう私たちであるのに,どうして言うことを聞こうとしない子どもたちの事で,堪忍袋の緒を切ろうとするのでしょうか。私たちに「教育」という仕事を与えて下さったお方は,その仕事がどんな性質のものであるかをよく知っておられるのです。しかも愛が試されもみくちゃにされる事はどんな事か,痛いほどご存じです。このお方が,いつも私たちのかたわらにいて下さるのです。そして一日中手を差し伸べておられるのです。私たちも進んで子どもに手を差し伸べなければなりません。
 反抗期の子どもには正面から行ったのでは追い払われてしまうので,食事やテレビを見ている後ろから行ってそっと肩に触れたり髪を撫でたりするのです。このように,親からたびたび一瞬身体に触れられ,絶えざる一貫した愛を与えられた事はいつの間にか彼らの心に記憶され,あとになって「あのピリピリして孤独感を感じていた頃,ぼくは気づかなかったけれど,父母はいつも僕の事を思ってくれ,愛してくれていた」という多くの子どもたちの告白によって知る事が出来るのです。

教師の手のぬくもり

 今年の夏期スクーリングの「保育内容の研究(表現)」で,受講者の皆さんに「教育者の理想像」という題のレポートを書いてもらいました。これらのレポートのおかげで,私も多くの事を学ばせてもらいました。その中の一通に「教師のあたたかい手」という題で書かれたKさんの文がありましたので,引用させてもらいます。『私は,父の暴力と借金まみれの生活の中で育ちました。担任の先生もあいそをつかしていた程の荒んだ中学時代,でもその中でたった一人の先生に導かれ,今の私があります。家に帰りたがらない,いつもピキピキに張り詰めて,成績も悪い,でも歌うこととピアノだけは好きだった私に,音楽室のカギをこっそり開けて,「終わったら呼びなさい」と遅くまで待っていて下さったのです。そしてある時,「きみの声はいい声だな,大好きだ,もう一度歌ってくれないか」と,いつも苦虫をかみつぶしたような顔の先生は笑顔でそう言ってくれたのです。その笑顔に支えられ,私は音大へ進む決心をしました。担任の先生の代わりに学校の説明会にも行って下さいました。卒業する時,目を真っ赤にして無言で肩に置いた手のあたたかさ。私は一生忘れません。だって,先生のあったかい心が,本当に嬉しかったからです。私はこういう愛ある教育者になりたい!感謝といっぱいの愛をもって!』。

   『手』 河野 進
もっとも美しい手は 病める人を看護する手
飢えた人に尽くす手 争う人をなだめる手
泣く人のなみだをぬぐう手 旅人をねんごろにもてなす手
親のない子をいたわりはぐくむ手 さらにけんそんな手

愛の手のぬくもり

 聖書に『いっさいのことを愛をもって行いなさい』とあります。私はこの聖句に接する度に,ジョセフ・バトラー女史の女囚人への深い愛の話を思い出します。
 イギリス婦人刑務所に収容されている荒んだ女囚たち。この女囚たちを最初にお世話した人がジョセフ・バトラー女史です。この女囚たちは,バトラー女史が現れると決まって罵り声をあげ,ベッドにもぐり込みました。「何がいちばん必要なのか?」を女史は考えました。「待遇改善か?」「身を立てるための職業訓練か?」「説教によって反省をうながし,真人間にすることか?」。しかし一つだけを女史は行ったのでした。ベッドにもぐり込んだ女囚たちのひたいに手を当てて,枕を直してあげたりしたのでした。なんの説教めいたことも言わないで,ただいたわりと愛を込めて,あたたかく見つめてあげていたのでした。だんだん女囚たちは平静になり,「何か語ってくれ」と言うようになったということです。
 バトラー女史から学べる人間関係の秘訣は,もし在るがまま人を受け入れていなかったなら,全ては無になってしまったということです。もしお互いが心中「受け入れていない」「受け入れられていない」という関係だったとしたら,私たちがどんなに表面をつくろっても,人の心を刺し通して硬直させるということです。そこではもはや,どんな行いも言葉も握手も,そのまま通じる事はありません。それに比べて「人を受け入れる」という事,即ち愛は,お互いの弱さや欠点を補って余りあるものです。私たちは受け入れられ,愛されて,初めて生き始めるのです。そしてどんな人を見ても,その生きる姿がいとおしく見えるようになるのです。今までは苦しんでも手にする事が出来なかった喜びや平安や感謝が,心に満ちあふれてくるのです。もちろん,なかなかバトラー女史のようには行かないでしょうが,たった一つのカギは,私たちの物事の受けとめ方に神が存在すると,バトラー女史と同じように変わってくるということです。その人の受けとめ方,考え方,とらえ方の背景には必ずその人の人生観があるのです。その人の受けとめ方が変わるということが,人生観が変わるということなのです。

<玉川大学通信教育課程補助教材 玉川通信 97年12月号掲載>


手のぬくもり!そして教育!

音楽以上に大切なもの

 最近,神奈川のK小学校の「親子音楽の集い」の指導で招かれて行った時のことです。私が登壇する前に,この小学校に隣接しているK中学校の80名程の生徒さんたちによる吹奏楽の演奏がありました。この秋,関東地区のコンクールで銀賞をもらったというだけに,さすが次々に素晴らしい演奏をして,体育館いっぱいに集まった父母や子どもたちを魅了していました。私が感動させられたのは,その演奏もさることながら,指揮をされた女性の先生と中学生たちのさわやかな態度でした。始まる前,それぞれ楽器を持ち廊下で出番を待っている間,そこを通るどの人に対しても自然な笑顔で「こんにちわ!」と挨拶をしているのです。舞台の上での演奏中の動きにも,そのままさわやかな雰囲気が漂っておりました。なんて気持ちのいい先生と中学生たちなんだろうと思いました(あとから知ったのですが,毎年部活動のスタートをする際,「人間関係の和こそ大事」ということで,「挨拶」を第一にしているということでした)。
 最近,職場でも学校でも,同じ屋根の下にいながら挨拶も交わさない人々が多く見受けられます。人のために余分な時間を使うより,自分の生活を気ままに楽しんだ方がいいなど,人と人との関わりが破壊されているとしか思えない現状です。私たちは,たとえ技術や能力が秀でていたとしても,もし隣人との交わりを忘れてしまっていたら,最も大事な「生きていく価値は何なのか」という命題を見失い,行き着く道がわからなくなってしまったといってもいいでしょう。これでは人間失格と言われても仕方がありません。
 聖書の中に,人から見てその成す事がすべて優れていて,何もいうことなしとも思える一人の青年が,主イエスに「先生,今まで私は,成すべき事はしっかりやって来ました。しかしもっと永遠の生命を受けるために,何をしたらいいでしょうか(本当の命は何でしょうか),教えてください」と尋ねるところがあります。この富んだ青年の真剣な質問に対して,イエスは「あなたに決定的に足りないことが一つある」と答えられました。それは,「隣り人がいない」ということだったのです。即ち「自分が富んでいると思っていても,ほかの人間が自分のそばにいるという事を忘れてはいませんか?ただ自分だけがいい思いをしておればいいというのではありません。身近にいる人を大切にし,感謝することを忘れないように。そうして初めてあなたは豊かになるのですよ」という事だったのです。さわやかな中学生たちのおかげですがすがしい気持ちになった一日でした。

自らすすんで友好的になる!

 現代ほど多くの人々が孤独を感じ,引っ込み思案や劣等感で苦しんでいる人の多い時代はないと言われます。しかし誰であったか,こう書いています。「私たちが孤独であるとしたら,それは私たちがよく見ようとしていないか,或いはよく聞こうとしていないか,それとも怠けているか,のためである」。そうです,人から与えられるのを待っていないで,自分自身の中から出て行き,他の人々と交わることなのです。進
んで友好的になることなのです。その一端として,次の歌あそびなどはいかがでしょう。元気な挨拶を意図して,私なりに工夫してみました。

 ◇『夜が明けた』の歌を歌いながら挨拶を交わし,どんどん仲間を増やしていく遊びです。まず隊形は自由で,めいめい『夜が明けた』の歌を歌いながら自由に歩きまわります。歌の最後の「みなさんおはようございます」の時には二人で向き合い,イナイイナイ・バアのように手で壁をつくり,その手の甲を相手の手の甲と合わせます(図・)。お互いに合わせた手は動かさず,手に顔を近づけて顔を隠し,精いっぱいの笑顔を作ります(図・)。歌声を合わせて「ございま」まで歌い,「す」の時に,右か左に顔を出して相手と挨拶をします。この時,手は動かしません(図・)。同じ方向でぴったり相手の笑顔と合ったら成功で,前に相手の顔がなかったら失敗です。成功したコンビだけ次から腕を組んで,「右にしようか」「左にしようか」のどちらかを相談しながら歩きます。こうして最後に全員がひとつ仲間になるまで続けていくのです。

 ◇『友だちになろう』の歌の1〜2番を手話でやり,「ともだち」の個所を歌う度に,いろんな友だちと握手をします(ご希望の方にはお教えします)。
 最近は,いろいろな手話の歌が普及しておりますが,より良い仲間作りのために,途中で握手したり手をつないだり出来る手話の開拓もとても大事ではないかと思っております。『友だちはいいな』(小山章三曲),『小さな世界』(シャーマン兄弟曲),『夕やけこやけ』(草川信曲)などです。
 ◇『歩いてゆこう』の歌を歌いながら言葉合わせをして,仲間を増やしていく遊びです。これも隊形は自由で,めいめい「歩いてゆこう」の歌を歌いながら自由に歩きまわります。二段目の「春が来れば花も咲く」の個所に来たら二人で向き合って止まります。そして指導者の「三!四!」の合図で,次の三つの言葉(「大好きだよ」「宝だよ」「味方だよ」…子どもを育てる魔法の三つの言葉とも言います)の中から一つを選んでおいて,同時に声を出します。ぴったり言葉が合ったら成功で,次から腕を組みまた最初から歌いながら,「どの言葉にしようか」と相談しながら歩きます。これも最後に全員がひとつの仲間になるまで続けていくのです。

人間教育の根本

 すくなくとも私たちは,教師になるとか,医者になるとか,公務員になるとかいうのが最終目標ではなく,どんな生き方の教師になりたいのか,どんな生き方の医者になりたいのか,どんな生き方の公務員になりたいのかが一番重要なはずです。「何になるのか」はパンの問題です。「どう生きたいか,どんな人になりたいか」は魂の問題です。今年の1月,旭川に行った時,その地に在住しておられる作家の三浦綾子さんに,主催者のはからいで個人的にお会いする機会に恵まれました。応接間に上げていただき30分ほどお話が出来た中で,特に次の言葉が心に残りました。
 「私たちはどう生きたらいいか」の良い例として……。「人のために祈る,これほどすばらしいことがあるだろうか。私はこれこそ人間教育の根本であり,第一番目の躾だとつくづく思う。私たちは幼い時からいろいろ躾けられてきた。“おはよう”“おやすみなさい”“ただいま”“いただきます”などと。けれども,人のために祈るという躾けをしている家庭がどれほどあるだろう。夜寝る前,朝起きた時,人の幸福のために祈ることを覚えた魂と,それを知らずに育った魂には,大きな差があるに違いない。人の幸せのために祈る人に,神さまは宿って下さるのである」……。
 「まばたきの詩人」とも言われ,私たちを感動させる詩をたくさん作って残し,40歳で亡くなった水野源三さんという方がおります。彼は小学4年生の時に集団赤痢にかかり,3週間も42度の高熱でうなされ,何とか一命はとりとめたものの,脳膜炎になり全身の自由を失ってしまったのです。言葉さえ口に出せなくなったのですが,母親うめじさんの献身によって「あいうえお表」が作られ,一字一字をゆび指しながら彼のまばたきの反応を見て,一つずつ詩が生まれていったのでした。その彼の詩にこんなのがあります。

    『カレーライス』
台所から
姪たちの野菜をきざむ音
台所から
お皿に盛られた あたたかいカレーライス
飢餓に悩むアジアの子どもたちに食べさせたい
このカレーライスを

 私のような五体満足の者さえ不平や不満を言ったりするのに,水野源三さんは,動かない身体ながら飢餓に苦しむ人たちの事をも思っているのです。果たして,私たちのうちの何人が,カレーライスを目の前にして難民の事を考えているでしょうか。「真の教育」とは,こういう人が育っていくことを言うのではないでしょうか。

<玉川大学通信教育課程補助教材 玉川通信 98年1月号掲載>


教師の自己改革!そして教育!

子どもたちに赦されて「教師」を

 私は神さまから「先生」にしていただいて,今年で約40年になります。教師として「不惑の域」に達したんだぞ,と言いたいところですが,私の良心は渋い顔をします。「あなたはきょうまで,赦されて先生をやってきたにすぎない」と。まことにそのとおりです。神さまに,そして子どもたちに赦されての40年でした。たしかに,教育というのは理想どおりにいくきれいごとではありません。見栄っぱり先生になってみたり,愚先生になってみたり,迷惑だらけの歩みを今日まで延々と続けてきたように思います。若い頃ほど特に,「先生」という職業柄,いつのまにか「きみたちのため」という言葉をふりかざし,「教訓」片手に交通整理の警察官よろしく,ホイッスル鳴らして旗ふって,違反行為は容赦なく取り締まるといった教師だったと思います。しかし,授業や遊びそしていろいろな行事を通して子どもたちと生活するうちに,どれほど子どもたちの優しさ,あたたかさに何十回,いや何百回触れてきたことでしょう。「負うた子に教えられ」などという程度のものではありません!そして週一回の礼拝をきっかけに,神に捉えられ,砕かれてから,私も子どもも両方が父なる神に面倒をみていただいている「神の子ども」であると分かり,またいかに子どもたちから赦されて「教師」をやってきたことかと知って,ひとつずつ私の目からウロコが落ち,自分が変えられていくのを感じました。

 一年に一度行われる音楽会!毎年その季節になると,本番の日が近づくにつれ練習量も増え,だんだん自分がヒステリックになっていくのを感じたものです。それはいつも私の心の奥のどこかに,「上手に歌わせなければ!お客さまに自分の指導と力量が問われそうで,恥ずかしくないように!」といったような計算があって,必死になって子どもたちを引っ張っていこうとしていました。ところがある年の音楽会の練習中,ひといき休憩をとっていた時,数人の子どもたちが駆け寄ってきて,「先生!明るい顔で指揮してね!ぼくたち,この歌が大好きなんだ!」と声をかけてくれました。子どもたちのこの一言は,まるで私の醜い心が見抜かれているようで,もういっぺんに目を醒まさせられた思いがしました。私のリードで歌わせられていた子どもたちは,「ただこの歌が好きだから歌っている」と思っていたのです。「うまくみせる」とか「恥ずかしくないように」とかいったような打算など,いっさい無かったのです。「好きな歌を歌う」,ただそれだけだったのです。この子どもたちの歌を歌う時の純粋さに比べて,私が音楽をする態度の何とイヤらしい!子どもたちと私との気持ちには,まるで天と地ほどの開きがあるではありませんか!この時私は心の中で叫びました。「主よ,私の中の醜いプライド,自己中心,うぬぼれ,そして神の言葉への軽視と不従順,神の御心を求めることへの怠慢などをどうかお許しください」。するとこれらすべての汚いものがぬぐわれたようで,私のリードに心の平安が訪れ,出てくる言葉も「この前奏,いいなあ」,「きみたちのここのハーモニー,ゾクゾクするなあ」に変わっていったように感じました。
『教育愛とは?』を一言で言うとしたら,『子どものために死ぬことである』と定義出来ると思います。聖書に『人がその友のために自分のいのちを捨てること,これよりも大きな愛はない』とあります。ですから,教師が子どもを愛するということは,子どものために死ぬということではないでしょうか。これは何も肉体的なことだけを言っているのではありません。まず「自分が恥ずかしい」という気持ちを捨てることでしょう。「子どもたちがそんな発表をしたのでは,自分が恥ずかしい」「クラスでいじめや不祥事があったなんて,担任として恥ずかしい」などというのは,死んでいないわけです。「自分は教師としてこの世に送られて来た。愛があるかどうかが試されているのだ。そして子どもたちの人生はこれからなんだ」と考え,恥ずかしさに死んだ生き方をする訳です。こうしていると逆に,教師・子ども共に生きてくるから不思議です。

「教師の熱心さ」の弊害

 私が小学部に在職中,音楽専科ということもあって,2回だけ学級担任の経験をしました。最初は5年生の受け持ち,2回目は5・6年生(持ち上がりで2カ年)の受け持ちでしたが,たった2回だけの経験とはいえ,「良いクラスとは?」ということで,クラスの雰囲気が正反対になったとても貴重な体験をさせてもらいました。1回目の担任でスタートした時は,「いつでも一致団結してまとまったクラスをめざして」という信念で,それはそれは毎日張り切っておりました。「あいさつはしっかり!」「かげぐちをしない!」「天気のいい日は教室になんかに閉じ込もっていないで外に出て遊ぶ!」など,「絶対いい子でなければダメ!」の要求を突きつけていたような気がします。だからスタートしたばかりの頃は,みんなが引き締まった生活をしているかのようで,担任の私にとっては心地よい学級集団が出来ているかのように錯覚しておりました。しかし日ごとに,私が情熱を燃やせば燃やすほど子どもたちの表情から明るさがなくなり,子どもたち同士の関係だけでなく,担任の私との関係もなんだかギクシャクしたものになっていくのを感じるようになりました。「何が原因?」と暗中模索しているうちに,集団生活では「いい子への要求」よりも,「失敗することも受け入れられるラクな雰囲気こそ大切!」ということに気づきました。しかしその時はもう三学期の終わり頃になっていて,子どもたちに大変申し訳ないことをしたと思いました。その反省から,次の担任の時は和気あいあいのクラスになったようです。私が得たことは,「子どもたちがありのままでいても,緊張や脅威を感じないクラス!心理的に安全な雰囲気のクラス!」ということでした。もし「いい子であらねばならない!」ということが強く要求され,異分子や非協力者が集団から冷視されるとしたら,不自由で冷たい空気がかもし出されるのです。こういうクラス経営をしていると,子どもたちは担任や級友たちの顔色を伺いつつ自己を殺して生きなければならなくなります。嘘の生き方をせざるを得なくなってしまう訳です。「教師の熱心さ」はもちろん大切なのですが,それによって子どもが見えなくなったなら,かえって破壊的に働くことを学んだのでした。

出来ないことも善

 「教育とは,頭を賢くする知的・能力的なことに力を注ぐことである!教師というもの,子どもたちの上に立って管理し,方法,技術を駆使し,合理的な勉強や授業を優先することである!」というふうに一般に考えがちです。私自身も長い間,「できることは善!できないことは悪!」だと考え,賢くすることが全て!という考えでおりました。そしてこの考えで情熱を燃やして取り組めば取り組むほど,いつの間にか子どもたちの顔から笑顔が消えてしまっているのに気づき始めました。そして,『主が言われた,「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから,キリストの力がわたしに宿るように,むしろ,喜んで自分の弱さを誇ろう』という聖句に触れてから,「出来ないということも子どもの人格や特性なのだ,善なのだ,だからこそ出来ないことも大切なんだ」ということに気づいたのです。男子は子どもを産むことは出来ません。女子は本質的に男子になることは出来ません。その「出来ない」ということが,男子・女子の特性な訳です。そういうゆとりが私の教育の中で持てるようになって,不思議と子どもたちの表情に笑顔が戻って来るようになりました。何年か前,夜間スクーリングでこの話をしたところ,受講者の一人(保育園に勤めておられる女性)の方から次のようなお手紙を頂きました。

 『先生から聞いた「出来ることは善!出来ないことは悪!……ではありません」という話がとても印象に残り,私自身も,子どもたちを愛すればこそ厳しく一生懸命するんだと言い聞かせ,接して来たのでしたが,それは子どもにとって“押しつけ”であり,“こわい先生”であり,子どもたちがどんどん内にこもるようになったことに,私も気づきました。そして私も“出来ない”ことを受け入れたとたん,子どもたちがみるみる変わって来たのです。「内に閉じ込もるタイプだ」「やる気(集中力)がない子だ」「頑固な子だ」と思っていた子たちが,どんどん明るく素直な子に変わって来て(実は,これが子どもの本当の姿だったのですね),自分の関わり方が,いままでどんなに間違っていたかを思い知らされました。同じ愛を以て子どもに接していたはずなのに,接し方・価値観の違いでこんなにも子どもが変わるのかと思うと,保育者の役割の重要さをしみじみ感じさせられます。』

まず教師や親の自己改革から

 特に教師にありがちな,「自分を正しい者」の位置に置いて他の人の欠点を治してやろうとするあり方を,聖書では「罪」と言っております。「自分こそ罪深い者!変わるべき者!」と気づいたその時から,驚くべき周りが変わり始め,空気まで変わってくるようです。「今こそ全ての教師が聖書に帰るべきだ」との溝上茂夫氏の次の言葉をかみしめて歩みたいものです。

 『すぐれた芸術家は,聖書の中にある美を真実の美として認めている。これと同様に,私たちは混沌とした教育界にあって,この聖書の中に永遠絶対なる真の教育学を見いだすのである。そこには,永遠に教育者のお手本であるイエス・キリストがあるからである。またイエスの教授法はソクラテスもプラトンも,あるいは世界中の新しい教授法の教師もはるかに及ばないところの最高の模範教授であるからである。また教育者は聖書にくることによって,真実の教育愛の源泉がどこにあるかを知るばかりか,真の教育活動への新しい生命力を十分に与えられて,キリストに似た教育者となるのである。どのような教育学にも,学ぼうとする師弟の全人格を改造し,その霊眼を開き,教育を聖なる事業としてしまう偉大な力はないけれども,聖書にはそれがあるのである。そして聖書の一句は,コメニュウスを遣わし,ペスタロッチを遣わし,フレーベルを遣わし,トーマス・アーノルドを遣わし,サリバンを遣わし,全地球上から日々真実の教育者を遣わしているのである。 教師や教授たちは,その研究室にプラトンを研究し,ルソーを論じたりする。それらを読んで奮起したり,教育の聖者となった者が世界中に果たして一人でもいただろうか。百万巻の教育書を読んだとしても,聖書の一句を紐解かない者はおろか者である。聖書に聴くことなくして,いたずらに思索にふける教師はわざわいである。実に,聖書の中には,驚くべき何千の教育学が秘められているのである。そして,永遠に教育の本質を教え,教育者を奮起させ,種々の教科教育法の細かなところにまでも欠くことのない指導を与えるのである。おお,聖書こそ驚くべき教育学であり,活きた学校なのである。』

<玉川大学通信教育課程補助教材 玉川通信 98年2月号掲載>

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