教養フォーラム

 

  文学部講師 松 野 康 子

【プロフィール】
小学校教諭,東京都教育委員会,東京都立教育研究所を経て小学校校長として退職するまで,教育経営・算数教育に携わってきた。本校では,「教科教育法・算数」「教育相談とガイダンス」「学級経営」を担当している。

 学ぶ世界へのパスポート

〜静かな学級づくり〜

 授業のはじまりのチャイムが鳴っても,教師はすぐ教室へ行けないこともある。そうすると,教師のいない教室は,ハチの巣をつついたような騒ぎになる。時々,元気の良い子が廊下に出て,先生が来たかどうか偵察する。廊下に教師の足音がすると「来た,来た」とはじめて静かにするが,時には教師が教室に入って来ても気づかず騒いでいる子どももいる。
 私は今まで子どもたちと授業について,次のような約束を交わし,実行してきた。.
チャイムが鳴ったら,すぐ教室に入って,これからの学習の準備と,自分でできる勉強を始めること(とくにノートに書くこと)。その代わり,終わりのチャイムが鳴ったらすぐ授業を終える。このことを子どもと約束し実行した。これは学習の最も基本であり,理解力や集中力を生み出す原点であって,学習集団が創り出さなければならない必須条件だからである。
 初めのうちは,子どもたちにとって,すぐ教室に入り,じっと静かにすることはなかなかできない。しかし根気よく指導していくと,静かな雰囲気が学習に必要であることに気づいてくる。そのかわリ,私の方も,授業終了のチャイムが鳴れば,すぐ終われるよう計画を事前に工夫し,子どもとの約束を守るように心掛けた。
 学校での子どもたちには,このことはできるはずであるし,ことに高学年になると「この方が勉強する気分になって良い」というようになるのが正常な発達の証しである。
 先生がいない時は教室がしーんと静かで,にぎやかな時は先生がいる時,この静と動の組み合わせが学習生活に活力と誇りを生み出すことになるのである。 
 チャイムが鳴って教室に入り,静かになるよう努力すると,その時間はよく考えられ,勉強が進むことを子どもたちが実感し出すと,今までよりも一層静寂な学習環境が醸成されていくのである。 
 この過程で,「A君とK君はうるさかったんです。おしゃべりをしていて」というような訴えが繰り返されることもある。しかし,学級全体で静かにする努力を続け,みんなが静かにノートを開き,それぞれに漢字を書いたり,計算練習をしたりしていると,自分だけ騒いでいることが出来なくなるのが学習する集団の特性なのである。
 こうしたとき私が心掛けたのは,A君やK君の様に指導にのってこない子どもに注意し,指導の目を向けるだけでなく,この子たちとは,反対に自分から進んで静かな学習に努力しようとしている子,そうありたいと心が動いている子の存在を見失わないように努め,その行為を子ども同士が認め,お互いに励まし合うように仕向けたことである。
 なぜなら,良い点は子どもたち同士では発見しにくく,また指導者の視野からも外れ,指導のチャンスを見失う事が意外に多いからである。 
子どもたちは友達の違反行為を厳しく指摘することはできても,目立たない良い行為を見出し称賛することは難しい課題であって,見過ごしてしまうことが多いのである。
 指導には,誤りを指摘し改めさせる行為と,優れたところを認め,それを増幅させる行為の二面性が存在する。良いことに気づかせ,それを主体的に増幅するよう仕向けることは,学習者自身が自らの可能性を発見し,自ら学ぶ姿勢を創造する重要な筋道なのである。

 子どもたちは,どの一人もかけがえのない生命をもち,それぞれが違った顔と体と心をもって生きている。この個々の子どもの可能性を発見し,伸ばすことが教師の使命であることは教師の誰もが承知している。
 しかし,一つの生命体が持つ可能性を発見することはこれまた至難のことである。一粒の種を手にし,それが大地に根を下ろし,やがて成長してどんな色の花を咲かせるのか,その未知の世界を見通す事は容易ではない。可能性は神秘的であり,個性的であって,その発見は,神のみができる行為ではなかろうか。まして子どもが大人になり,どのような才能の花を咲かせるか,教師といえどもそれを予測することは出来ないほど神秘なものである。しかしここで見失ってはならない重要なことは,私は毎日,子どもたちの個性的な知的活動の姿や創造の原動力を確実に目にしながら,教師生活をしているという事実である。 
 私たち教師が,ひとりの子どもの中に発見しようとする可能性は,もっと近いところにある。子どもが再びめぐり来ることのない生涯において,発現されなければならずして,いまだ発現されない能力のことである。そしてこの可能性の片鱗は,授業中や遊びの中に見出され,また教師の新しい試みによって隠されていたものが発現し,発見されることも如何に多いか,私は教師生活を通して学ぶことができた。
 さらにいえば,子どもたちが可能性を秘めた能力の一部を垣間見せるのは,子どもが最も苦しい状態,最も困難な状態のときである。したがってこのときを鋭く見取り,温かく彼らの可能性を見出していくことが,教師の誇りと喜びと生きがいにつながるのではなかろうか。 
そのためには,教師は心の静けさをもって子どもに接し,子どもの清らかな生命を厳粛な気持ちで受け止め,良い行為を見出すよう心掛けたい。そうしてこそ初めて,ひとりの子どもが秘めている可能性が,私の眼の前に現れてくるのではなかろうか。少なくとも喧噪と倣慢の中では,見えるものも見えないまま過ぎてしまうことを私たちは反省しなければならない。
 教育は,どのように上手に教えるかと言う教育技術や,何を教えるかという教育内容だけで効果を上げることはできない。むしろこれ以上に重要なのは,教師と子どもとが互いに人間的に触れ合い,お互いに学ぶ人間同士として信頼と尊敬を生み出す学校生活が重要なのではなかろうか。これを私は教育の出会いと考えているが,この出会いの場を活かせるのが学校の醍醐味であって,ここに学校教育の意義が存在するのではないだろうか。 
 ことに,現代のように科学技術が進歩し,経済が高度成長し,人間の生活が向上して豊かになり,学校の施設も近代化し,管理運営が整然と整備されつつある体制の中にあるとき,このことが逆に教師と子どもの出会いを困難にしてしまったり,人間不在の学校になってしまわないか学校生活を通して点検しなければならない。素朴な生活,自然に親しむゆとりの時間,教師と子どもが同じ屋根の下で食を共にする給食の時間など,師弟同行の場が学校生活の至るところに存在することを再認識しなければならない。

 私の担任から離れて,地方に転校していったH子から手紙が届いたときのことである。
 新しい学校のようすや,友だちができたようすが,こまごまと書かれていた。その中に,授業が始まっても,「うるさくて困る」と書いてあった。この手紙に,みんなで返事を書いた。ひとりの男の子は,つぎのように書いていた。
 「そちらの学校では,先生が来る前はうるさいそうですが,せめて,あなたぐらいは,静かにしていてください。なぜか? それは,あなたがこの学校で勉強し,松野先生に習ったことがあるからです。・・・・」
私はこの手紙に接したとき,胸の中に熱いものが込み上げてくるのを感じた。教育の尊さをこの時ほど感じたことはなかった。
 今,テレビや新聞の報道で「5校に1校が,生徒が騒がしくて授業ができない」と言う危機的報道がなされている。時代の変化と共に児童・生徒の実像が目まぐるしく変容していることも事実である。しかし,だからといって,この事実を見過ごし,対応を回避するようなことがあっては,21世紀を生きる子どもたちの将来はどうなるであろうか。
 運転免許を持つ者は,いかなる交通事情に遭遇しても,安全な運転走行を心掛けなければならない義務と責任を持っている。これと同じ様に国家的ライセンスである教員免許を持つ私たちは,この困難な危機的な状況にあえて挑戦し,子どもたちに学習の新たなる喜びを与える行動を起こさなければならない。
 こうした意味で,ささやかな私の学級づくりの体験を基盤として,子どもたちと算数の学習を楽しみながら,抽象の世界に旅立ちたいと思う。

<玉川大学通信教育課程補助教材 玉川通信 99年11月号掲載>


〜具体と抽象〜

 私は羊羮(ようかん)を見るたびに,羊羮の絵を黒板に貼り,その3等分の仕方を考えさせた小学校時代の担任とその授業風景が頭に浮かんでくる。
 当時は戦争が終わって間もない頃であったから,羊羮などは幻で,絵を見るだけでも食欲が刺激され,だれも過不足なく正確に分けてもらいたいという欲求が高まった。
 当然、その分け方について真剣に話し合われ,正確に切るのは難しいから,ジャンケンで勝った者から分けてもらいたいという意見まで飛び出したが,結局,正確に分けるには,ものさしで測って分けるのが一番よいということになった。
 こうした盛んな話し合いの潮時をみて,先生は,1本のテープを羊羮の絵にピタリと当て,私たちの目の前で,ゆっくりと3つ折りにして,ていねいに重ね,開いて見せた。
 このしぐさを見ていた私たちは,だれもがこのテープを定規にして切れば,過不足なく正確に分けられることに気付き,納得したのだった。
 つまり,この目の前の操作によって,私たちは分数の基本概念である「等分の意味」を,具体的に脳裏に焼き付け,結果としてよく分かったという気分になったことが,今でも忘れられない楽しい授業として思い出されるのである。

 こうしたことから考えてみると,算数の楽しさを創り出すには,指導の内容をストーリー化したり,ゲーム化したりするなどの手法や,算数的活動を通し,具体と抽象の関連を考慮した創意工夫によるところが大きいように思われる。
 数学という教科では,この具体と抽象の関連が大切であることはだれでも知っているが,これを子どもの立場から算数の範囲で考えてみることが必要である。
 算数を学ぶ1年生にとって,まず初めに出会う数字は抽象の最たるものである。実際のりんご3つと2つを合わせることは,具体的で簡単であり,その結果は数えて知ることもできるのに,それを「3+2=5」として答えを求めるのであるから,1年生にとっては大変抽象性の高い学習のハードルなのである。「数は人間がつくりだした最も抽象的なものである」とは,アダム・スミスの言葉である。
 ところが,5,6年生ともなれば,「3+2=5」は,もはや少しも抽象的ではないが,「A:B=C:D」といった関係を式で表すのは,実際のものが数字から文字に変わり,しかも「:」という記号でそれが示されるのであるから,抽象性が一層高まり,理解しにくい子が増えていくのである。これに比べて,「1
÷3=2÷6」という表し方なら,同じ概念でありながら具体的で理解できる子が多くなるであろう。
 数学は「だんだん抽象的に考えられるようにする学問」だとも言えるわけだが,これには抽象的で分からない課題は「それを具体化して考えると分かる」というヒントが隠されているということではないだろうか。指導者は,そのための手法や技術を創意工夫し,概念は同じでも子どもの理解しやすい手段を講じていくことで,楽しい算数授業を創り出すことができるのだと思う。

1年生に,「たま子さんは ともだちといっしょに 7人で こうえんにいきました。
ブランコが 5つありました。ひとりずつのると いくつ たりないでしょうか。」

 という課題に取り組ませてみよう。
 「7−5=2 ブランコは2つ足りない」と答えられる子が多いと思うが,こうした子の中には減法の意味を深く考えないまま,安易に答えを出してしまったのに,この問題が理解できた子として扱われてしまうことがないだろうか。ほんとうにこのひきざんの式の意味が分かっているのだろうか。この式で表されていることが具体的に理解されているのだろうか。
 7人というのは人間の数である。5つというのはブランコの数である。人間の数からブランコの数をひくことができるのか,ひいてもいいのだろうかと心の片隅にひっかかるものを感じている子はいないだろうか。こうした疑問を感じていたために解答しないでいる子が,減法の原理が理解できない子と見なされてしまうことがないだろうか。
 こうした実態の診断は,医師ならば重大な誤診につながり,教師ならばどちらの場合も数学の楽しさを奪う重大な誤りといわなければならない。したがって,前者の子には,人間からブランコがひけるだろうかと一歩深めて考えるように注意を促し,後者の子には,その疑問のすばらしさに気付かせるため,一対一対応の原理から人間の数をブランコの数に置き換えて考えること,そうすることによって計算が自在にできることなど,その子の考えがより前進するように示唆するのが算数指導の本質である。なぜなら,先にも述べたように数学は抽象化の楽しさに気付いていく学問だからである。つまり,式は,日常の事象に見られる数学的な事実や関係を,数字と記号を用いて簡潔明瞭に表現した算数の文章であり,具体的な事象を,数理化することによって抽象的なものにし,同じ構造を持つあらゆる場合に適用できるようにしたものだからである。
 このことを図形の領域で考えてみよう。
 図形の学習では,子どもにとって必ずしも数学上の体系としての抽象(特殊)は具体(一般)より理解が困難であるとは言えないことに注意したい。
 子どもは,日常生活の中で身の回りの具体物の形を感覚的に捉え,そこに極めて抽象性の高い基本的な図形を見い出す。たとえば,数学上の体系から考えると,正方形はもっとも抽象性の高い図形であるが,子どもからみると生活の中で形として認め,親しんでいる認識しやすい具体性のある形なのである。つまり,子どもにとっては,一般的な図形よりも長方形や正方形,円などのいわゆる特殊な,条件の整った極めて抽象性の高い図形の方が,特徴があって形を認知しやすいので,ましかく,さんかく,まるなどの形に親しみながら,次第にその一般的な本質に気付き,図形の概念や用語を獲得していくようになる。したがって,積み木遊びや折り紙遊びなどによって特徴のある形に興味・関心を持たせ,形に積極的に働きかけていく経験を持たせることは,極めて重要な算数の素地的活動といえる。家をつくるにはどこに,どんな形を使えばよいか,自動車をつくるにはどうするか,折り紙をおると形はどのように変わっていくかなど,図形に親しみ,図形に対する感覚を豊かにしていくことが基になって,やがて図形の特徴や性質を調べ,図形を抽象的に認識していくようになる。
 このように,数学的な体系としての一般(具体)と特殊(抽象)が,必ずしも指導上の体系としての易しさ→難しさと同一ではないことに留意し,子どもの立場に立って考え,ときには抽象から具体へフィードバックしていくことも必要である。

 子どもにとっての具体とは何か,抽象とは何かを見極め,具体から抽象へのつなぎを大切にすることが指導上の体系と言える。抽象化を急ぐと,覚えることを強要することになり,子どもの立場にたった疑問や実感を伴った理解から考えていく楽しさを奪ってしまうことになり,算数嫌いをつくることにもなる。子どもの戸惑いから算数を創り出していくところに揺るぎない応用の効く理解が生まれ,創造的に考える人間が育つ。
 その根本にあるのは,その人が具体をどのように捉えているかということであると思われる。毎日の生活の中で見たり,聞いたり,やってみたりしながら,驚いたり,不思議に感じたり,疑問に思ったりする感性が,算数の学習を通して数理的に処理する手法や形式性,論理性に触れ,人間が本来,希求している「簡潔・明瞭・的確」に向かって,一層豊かに磨かれていくとき,抽象による広がり,深さ,楽しさを知っていくのである。
 そして,この具体から抽象へのつなぎを明らかにすることによって,子どもと算数とのよい出会いをつくりだし,子ども自身の知的好奇心を燃え上がらせ,生涯にわたって算数に親しみ,具体と抽象の行き来を楽しむことができるようにしたいものである。

<玉川大学通信教育課程補助教材 玉川通信 99年12月号掲載>


〜生活の中の数学〜

 誰しも,きれいな風景や名画など美しいものに接すると快感を感じる。また,美しい音楽によって心が安らぎ,豊かな感性を呼び覚まされた経験は,誰にもあるだろう。
 人間は,こうした美に対する感性だけでなく,正確なものを愛し,不正確なものに不安感を抱く感性を持っている。会計係になって収支が合わなければ,その金額の大小にかかわらず,不快感を持つことからもうなずける。また,1,2年生の子どもは,計算をした結果がぴたりと合ったとき大喜びする。これは,テストの点数が上がるからとか,先生や母親にほめられるからといった副次的な喜びではなく,子どもの心の中から湧き上がってくる本質的な喜び,本人自身がしっかりと評価した手ごたえのある喜びだからである。つまり正確さを愛するその子の欲求,感性が充足した状態を主体的につくりだすことができたからだと思う。
 小学校で学習する教科のなかで正確さの代表格は算数であるが,やがて学年が進むと「この問題の答えは,まだ分からないが,5から10の間になることは確かだ」などと正確さに幅をもって考えられるようになる。さらに,小数や分数,概数や蓋然的な数値,負数など自然数以外の数を用いて実生活上の課題の解決や表現が工夫できるようになり,数理的に処理する魅力を感知し,数字に対する感性を一層豊かにし,鋭敏さを増していくのである。

 ところで,今の世の中の実生活は,何ごとによらず数字に敏感である。ちなみに,平成11年11月7日の朝日新聞の一面から数字を取り出してみよう。
 「院外処方2.2%に疑義照会」という大見出しが一面のトップになっていて,その内容を説明するために,おびただしい数字が並んでいる。内容としては,調査した薬局数,交付された処方せんの枚数,内容別枚数・割合などが紹介され,用量などの記載不備による安全性上の疑問などについて問題提起されているが,数字の関係を読み取り,具体的に理解していくにはかなり骨がおれる。病院などでもらう処方せんには問題があるようであるが,私はよく見たこともないし,気にしたこともなかった。しかし,「全国では年間4億枚の処方せんが交付されており,調査結果を単純に当てはめると,年間約八百八十万枚が疑義照会され,約二百四十七万枚は安全性上の疑問があることになる」とのまとめを読むと,なんとなくかなり大変なことらしいと納得する。だが,処方せん4億枚という数は実際のところ,実感を持って分かる範囲を越えていて,分かったつもりになっているに過ぎない。
 同じ一面に「日本サッカー五輪切符」という見出しがあり,アジア最終予選カザフに3−1という結果にいたる成績が報じられている。こちらは,分かりやすい数字であり,試合やニュースをみていなくても,その様子を数字をおいながら理解することができる。
 また,「卵子凍結技術を開発」「企業献金で自民幹事長 − 禁止し,新制度に」「社会保障が変わる」などの報道も,数字によって分かったような気がしながら読み進む。
 このように,もともと抽象性の高い数字が,もっとも分かりやすいように感じられているのは不思議である。話をするにも数字を出した方が現実味があり,説得力があるというので,根拠として数字をだして話をする人が多いのも,この感覚が強く働くからであろう。

 しかし,「不登校児童・生徒○○万人を越える」とか,「リストラ○○人縮少」などと数値で表されると驚かされるが,その数字の意味するものはなんだろうか。その数字を決定づける基盤となる実態や根拠を踏まえて,その意味をきちんと把握していないと,本当の理解にはならないのではないだろうか。なぜなら,その数字は単独で意味をもっているのではないからである。つまり,数値の中身はそれを決定づける単位(基準)に照らした相対的な値だからである。これからは数字の時代と言われるが,数字に惑わされることなく,数字を生活に生かして生きることを考えなければならない。数字は読めても数字の中身が分かっていないような気がするのは私だけだろうか。自分のものさしを持っていなければ数字は恐ろしい魔物にもなりうるという注意が必要な気がする。万とか億という単位に麻痺してきて,カード地獄などに落ちて,命までなくさないためにもである。

 こうした意味からも,これからの算数教育は一層重要な意味をもってくる。
 子どもの毎日の生活で,「どうして?」「なぜ?」などと,子どもたちはいろいろな疑問を見つける。そのなかでも,「たくさんのおもちゃ」「どっちのお皿のお菓子が多いか」などといった遊ぶこと,食べることのなかの数や量にかかわる問題はとても大切な関心事であることが分かる。2,3歳の幼児でも,「ひとつ」「ふたつ」と数を唱え,「すこし」とか「いっぱい」などと量を表現することに意欲的である。それは,数や量が子どもの生活意欲に直接結び付いているからであるが,この内在する力をしっかりと育て上げることが算数教育の一つであり,生活に生きる数字を駆使して,実社会を力強く生きていく力となるわけである。
そこで,原点にかえって生活から生まれた数字や身の回りの数字の使われ方について考えてみよう。
 「部屋番号1012号室」「フイルム36枚撮り」「CDの直径は12cm」のように,生活のいたるところに数字が使われているが,その意味がよく分からずに使っている場合も多い。
集合住宅やホテルなどでは,部屋を表すために数字が使われていて,1012号室は10階の12番目の部屋を意味する。これは数字が位置を表していることになるが,36枚撮りのフイルムはのばして広げてみると約160cmであり,ふつうの大人が両手を広げた長さになる。現像したフイルムを見るのに都合がいいように,この長さの枚数になったという。まさに,生活の中で生まれた数字ということができる。CDを世界で初めて開発したのは,日本の会社だそうであるが,その会社ではCDを製作するにあたり,オペラの1幕分(74分間)を基準にし,ベートーベン作曲の「第九交響曲」の全曲が入ることを前提に製作した結果が,直径12cmになったということである。あるものを基準にして作り出された数値である。
 いま使われている様々な単位についても,世界共通の単位ができるまでにはその土地,その時代の人々の暮らしから生み出されている。たとえば,昔インドでは遠くにいて牛の叫びが聞こえる距離を1とした。つまり,「牛の叫び」が長さの単位に使われていたということである。
 日本では長い間,「尺」や「寸」が使われていたが,これは中国から伝わったものらしい。昔,中国では「親指と他の4本の指をめいっぱい広げたときの小指までの長さ」を一尺といい,その後に変化していったようである。人の肘から手首までの長さをもとにしていた日本(1尺=30.3cm)とはだいぶ違った長さになる。また,日本では,つか(こぶしひとにぎりの幅),あた(親指と中指とを広げた長さ),ひろ(両手を左右に広げた長さ)など,体のどこかをなかだちにして単位が作られていた。

 このように考えてみると,数は実生活の中で生まれ,実社会の改善や進歩をもたらす重要な要素であることが分かってくる。したがって,今後も進歩,発展を続けるであろう新しい世紀の時代は,数の活用も一層進化し,発展し,複雑性を増していくことであろう。たとえば,国家予算の単位も億から兆になり,やがてはその上の単位で表現しなければならない時代がやってくることは確かである。このようになると,その数の実像は,個人の計数能力をはるかに越え,実態はつかみきれないものになってしまうことになる。それはまた,時代の姿を見失うことにつながるのではないだろうか。なぜなら,数値は,先に述べたように,進歩,発展の最も基礎となる条件だからである。それでは,どうしたらよいのであろうか。数字が生活を生み出すということではなく,生活から数字が生まれてきた原理を改めて見直し,数字の実態把握の根拠,つまりそれをおしはかる単位は何かを意識する生活態度を身につけることが新しい生活の生き方の基礎になるのではないだろうか。

<玉川大学通信教育課程補助教材 玉川通信 2000年1月号掲載>


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